「それで? なぜ戻ってきたんですか?」

 私が過去を振り返っている間、マリア先輩はずっと涙を流していたらしい。赤く腫れ
た目をこちらに向けた。

「あの子は今、幸せ?」
「それが私の質問に対する答えですか?」

 苛立たしい気持ちを抑えて尋ねたが、彼女の答えはやはり意味のない質問だった。

「あの子は、楽しそうにフォルテールを弾いてる?」
「……少なくとも、今はそう見えますが」

 ようやくそれだけ答えると、涙の残る顔がぱっと笑顔で満たされた。

「そう……それなら、良かった」

 ああ――この人は、変わらないんだな。
 と、彼女の顔を見て、諦観にも近い思いがわき上がる。

 心からそう言っているのが、今の私にはわかる。リセルシアの幸せを喜ぶその気持ち
は、純粋だった。だがそこに、罪悪感のつけいる隙はない。リセルシアを捨てたことも、
グラーヴェ先生を捨てたことも、彼女の中ではすべて過去の中の話で、その遠い過去に
自分が捨てた子どもがどうなったか? それがふと気にかかり、ただ見に来ただけ――
それが、エスクがここにいる理由だった。そして心からのその言葉も、過去の知り合い
が幸せで良かった、と、それだけでしかなかっただろう。
 マリア先輩は、こうしてここに残り、グラーヴェ先生がどのように変わったかをずっ
と見てきた私の心の内を知ることは、決してないだろう。少し老け、大人になった私を
見て、彼女は懐かしさ以上のものは感じない。
 マリア先輩は、怖かったのだと、そうつぶやいた。子どもの自分が、子どもを育てる
ことなどできないと。彼女は、自覚している通り、本当に幼いのだ。自分の行いが、周
りにどのような影響を与えるか、まるで理解をせず、自分のしたいようにし、そして逃
げてきた。そもそも彼女には、逃げているという自覚もなかっただろうが。

 それを、私は短い会話の中で唐突に悟った。そして、そんな風に理解できるくらいに
は、自分は成長していた。その理解は同時に、悲しいほどにこの目の前の少女は、成長
していないこともまた、私に伝えた。

「それなら、聴いていきますか?」
「え?」
「リセルシアのレッスンの時間、少しお手伝いでもしてみますか? 過去にここで助講
師を務めたあなたなら、簡単に許可も取れるでしょうから」
「それは……やめておくわ」
「なぜ?」
「会ったとしても、なにを話していいかわからないから」
「話す必要はありません。ただ、あなたの気にしていた、リセルシアのフォルテールを
聴くだけでいいんです」
「……なにを怒ってるの? コーデル」

 淡々と話す私の口調に、マリア先輩は、そんなことを感じていたのか。

「……怒ってはいませんよ」

 多分これは、彼女が成長する数少ない機会ではないかと、そんなことを考えていた。
会って、リセルシアのフォルテールを聴き、それから彼女がどうするかは、彼女自身の
問題だ。しかし今のまま、自分が引き起こした現実を直視しないまま、再びこの街を去
るのなら、彼女は変わらない。いや、変われない。

「グラーヴェ先生が今、ここにいないことを知っていましたよね?」
「……ええ。古い友人に聞いたから」
「ということは、来週行われるリセルシアのコンサートが終わった後、ここで臨時講師
をすることも?」
「……知ってるわ。でもコーデル、なにが言いたいの?」
「それまでに決めてください。リセルシアに会いに来るか、そうでないか。私から言え
るのはそれだけです」

 そう締めくくり、全ての話が終わったことを示すように、彼女の握りしめていたカッ
プを引き取った。トレイの上では、陶器の触れあう冷たい音が鳴り響いていた。
 やがて彼女は立ち上がり、ドアの前でささやいた。

「また来るわ、コーデル」
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